第2回 自分のことも語っておくと・・・
中学生時代から土曜日午前中の授業が終わると渋谷の東急名画座に駆けつけるなど映画好きだった私だが、映画好きが深まったのは高校時代だった。
高校1年のとき、馬鹿な教頭が文化祭の準備をする生徒をバリケードを作っていると勘違いして警官隊を導入し、生徒が世田谷警察に連行させたのをきっかけに、激怒した生徒が本当にバリケードを作り、私の通っていた高校は泥沼の高校紛争(闘争)に入り込んだ。記憶では半年近く授業が行われることはなかった。高校に行ってもホームルームと自習が続き、午後下校してもやることがないので名画座通いが始まった。
そして文化祭のとき、同じクラスのOがアラン・レネの「去年マリエンバートで」を芝居でやろうと言い出した。台本はOと私で書いたが、あの難解な映画を脚色する力は私たちにはなく、アラン・ロブ=グリエの原作を引き写しただけだった。不安げに付いてくるクラスのみんなに対して我々が悩んでいたら話にならないとOと私は「この作品はすごい」と訳も分からずに言い放っていた。実は二人とも主役に抜擢したSに淡い恋心を抱いていた。デルフィーヌ・セーリグに似た彼女を主役にすれば、毎日長い時間彼女と会える。それがこの芝居を始めたモチベーションだった。まるで、トリュフォの映画の一コマのようだった。
次により深く映画の世界に踏み込んだのは大学4年のときだった。
大学で映研に属し、8ミリ映画を作ったり、現在シナリオライターになっている早稲田映研の加藤正人と自主上映等行っていたりしてたが、映画と関係なく普通に就職するつもりだった。荻窪大学の仲間たちが8ミリ映画をつくっていたがあまり関わる気にはならなかった。「多分平凡な人生を送るんだろうなと」思っていた私を大きく動かしたのは一枚のビラだった。そこには、「映画技術美学講座初等科受講生募集」とあり、「映画技術者の養成をめざすが、技術を教えるのではなく、技術教育を通して映画の本質を理解していただく」と書いてあった。担任講師に寺山修司の名前を見た私はすぐに受講を決めた。「映画と関係ない人生が待っているとしてもこの1年だけは映画に浸ろう」と収監前の罪人のような気分だった。
講座は平日は18時~21時、土曜は13時~21時とハードなもので、講師も一流の映画人がその技術を教えてくれた。事務局にいた倉岡明子さんの人脈が大きかった。私は大学の授業よりもこちらの方に熱心に通った。担任の寺山修司さんも真剣に取り組んでいた。演技の講座では私など自分でも恥ずかしい演技しかできなかったが、「いまの演技は、ここが悪かった」と本気で叱ってくれたし、受講生の一人が学生運動の挫折に悩む人物をシナリオに書いたところ「三島由紀夫はそんな悩みなど海でくたくたになるまで泳げば忘れてしまうと言っている」と講師とは思えぬ激しさで語気荒く論難した。秋になって講座が終わって新宿ゴールデン街で一緒に飲んだとき、就職のことを話すと、「創作の世界の人生も面白いかもしれないよ」とぼそっと呟かれた。その一言で決まっていた保険会社の内定を断ってNHKを受験した。
その次は、脳出血のリハビリ後の「しんゆり映画祭」との出会いだった。
就職後は自分の時間の99%を仕事であるドキュメンタリー番組の制作のために費やしていたが、一度死にかけて家族も地域も顧みない生活は間違っていたと真剣に反省した。リハビリ病院からの退院を機会に富士見台から新百合ヶ丘に引っ越した。引っ越した新百合ヶ丘は今と比べると緑のたいへん豊かな環境だった。毎日リハビリのため,妻と散歩していたが、ある日、シマウマのかぶり物をした奇妙な集団とすれ違った。そしてすれ違いざま一枚のビラを手渡された。そこには「しんゆり映画祭」と書いてあった。
その後色々な経緯の末(第1回に記述)しんゆり映画祭のボランティアスタッフになったが、そこには面白い人々が集まっていて毎週週末に行っていた活動は本当に楽しかった。「仕事以外にこんな世界があるのか!」と目を開かれる思いだった。まだご健在だった今村昌平監督の家にも遊びに行った。「脳出血になったおかげでしんゆり映画祭に出会えました」と言うと、人をからかうのが好きな今村監督は「それは不幸な出会いでしたね」とつまらなそうに呟いた。
しんゆり映画祭には武重邦夫、白鳥あかね、野々川千恵子、千葉茂樹という歴代委員長がいるが、みな「映画に魅せられ」、映画に人生を賭けた人々だ。彼らは映画祭に市民ボランティアという制度を導入し、新百合ヶ丘に住む人々を皆「映画に魅せられた人々」にしようと画策した。
そして私もいま映画に魅せられている。
(三浦規成)
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