荻大映画制作秘話
荻大映画の第一作目は、私の撮った「黄土を血に染めろ!」です。
『ぴあ』に載せてもらい、何度か映写会をもちました。荻大の皆さんにも、協力してもらいました。しかし、その話は後の機会にして、今回は荻大映画「黄土を血に染めろ!」を撮ろうと思ったきっかけの話です。
前回の話や沼辺くんのインタビュー(記憶よ、語れ!第1回)にあるように、大学時代の私は毎日のように映画を観て過ごす、かなりの映画ファンでした。
毎週末は、池袋の文芸地下で行われていたオールナイト(深夜映画)に通っていました。監督や俳優・テーマなどで特集を組み、土曜の夜から日曜の始発電車が動くまで5本の映画を上映していました。(映画館のオールナイトなんて、いかがわしい人が集まっているなんて勘違いしないでください。全員がかなりの映画狂で、スクリーンの役者に向かって「よし!」と声をかけたり、拍手をしたりする人たちです。いかがわしいの意味がちがいますね)。
ラインナップは日活の旧作品が中心で、「鈴木清順特集」とか「渡哲也・無頼シリーズ5本立て」とか、いま思い出しても魅力的な特集が目白押しでした。
そんな学生だった私が、ATGで『ヒポクラテスたち』を監督することになる大森一樹くんと知り合ったのは、映画雑誌『キネマ旬報』を通してです。
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●大森一樹 Profile(公式サイトより)
1952年3月3日 大阪市生まれ
1977年 第三回城戸賞を『オレンジロード急行』で受賞、翌年同作品にてメジャー映画監督デビュー
1980年 京都府立医科大学卒業
1983年 医師国家試験合格
1986年 『恋する女たち』(東宝)にて、文化庁優秀映画賞、第11回日本アカデミー賞 優秀脚本賞・優秀監督賞受賞
1988年 文部省芸術選奨新人賞受賞
1996年 『わが心の銀河鉄道〜宮沢賢治物語』(東映)にて、第20回日本アカデミー賞優秀監督賞受賞 2000年4月〜2005年3月 大阪電気通信大学総合情報学部メディア情報文化学科教授
2005年4月〜 大阪芸術大学芸術学部映像学科教授
著書に『映画物語』(筑摩書房)、『震災ファミリー』(平凡社)、『あなたの人生案内』(平凡社) など
兵庫県芦屋市在住
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その頃の大森くんは京都府立医科大学に通う学生でした。『キネマ旬報』の読者であり、京都にあった「京一会館」という映画館の常連(サポーター)でもありました。
東京と京都、2つの都市に住む大学生。映画が好きで、ディープな映画館を支持しているという共通項があるので、なんとなく親近感を感じ、手紙をやり取りするようになりました。
ここで、1974年当時の映画界の説明をします。
今と違ってそのころは、若者が映画監督をすることは考えられませんでした。以前は、立派な大学を出て(主に東大)、難関の映画会社に就職し、助監督をしながらシナリオの勉強などをして機会を待つという道がありました。しかし、斜陽の映画会社は新規採用をしていません。映画を撮りたいと思ったら、自分で映画を作るしかありませんでした。そこで自主映画がさかんに撮られていたのです。
今活躍している大林宣彦も森田芳光も自主映画出身です。
大森くんから、お願いの手紙が届きました。
《今度東京で自分の自主映画の上映会を開きます。つきましては、友人を誘って観に来てください。チケットを同封します。》
という内容の手紙でした。
お互い映画ファンであり、藤田敏八監督作品が好きということは知っていましが、大森くんが映画を作っていることは、それまで知りませんでした。
上映会に行けば大森くんに直接会えると思い、映画にはあまり期待しないで、新宿のスバルビルに出かけました。
それが、その後くり返し観ることになる「暗くなるまでまてない」との出会いでした。
1975年のことです。(つづく)
黄土(横谷)