「追悼を越えて 若松孝二 in 池袋」

昨夜、池袋の新文芸座へ行き、「追悼を越えて 若松孝二in池袋」を見て来た。
上映作品は、『新宿マッド』(1970/若松プロ)と『性賊セックスジャック』
(1970・若松プロ)。
2本とも相当な「雨降り状態」のフィルムだったが、1970年の新宿や多摩川
周辺「川向こう」の時代状況を映し撮った作品だった。そして上映後に、司会の
足立正生、ゲストの秋山道男、小水一男が登場した。

足立は二人を若松プロに文化大革命を起こした"革命児"とまず紹介した。そし
て、「劣悪な環境のなかで 若松孝二の思いつきを絵にしてきたこの二人に拍手し
てください」と語った。若松プロ入社当時、小水は日大芸術学部の学生でまだ1
8才か19才、カメラを持って若松と会ったところ、酒を飲みたかった沖島勲に取
り上げられ質に入れられてしまったという。秋山は小水より2才くらい下で高校
を出たての芸術をめざす若者だったという。足立はトークの大半を、 若松孝二と
いう監督のもとで、こき使われながら、必死に監督の意図を絵にしてきた二人の
エピソードに割いた。

二人とも死を覚悟するような状況について語った。秋山はビーチで撮影の邪魔に
なるゴミを素手で掃除していたところ巨大なムカデを掴んでしまい、その毒針に
刺され手がグローブのように腫れたうえ、心臓にも異常を感じ、救急車で病院に
運ばれた。「それじゃな」と送り出した 若松だったが、当時の若松プロで病院に
入ったスタッフはみな「よくなったら金を払わず病院から逃げてこい」と言われ
るのが常だったという。小水も真冬の青森かどこかの海岸で、ワカメを頭からか
ぶり下駄の鼻緒を手に海からあがってくるという演技を面白おかしく語った。

金も無かった、時代劇の撮影でちょんまげのカツラが一つしかないのに、若松
が「宴会シーンが撮りたい」と言い出したことがあったという。自分たちの酒や
食べ物もないのにどうするのか?困ったスタッフは新聞紙でちょんまげをつくり、
酒に酔って踊る登場人物たちを障子のシルエットで表現したという。また秋山は
当時万引きで食いつないでいて大島渚監督の「新宿泥棒日記」では万引きの演技
指導をした際、あまりの鮮やかな万引きぶり故田辺茂一紀伊國屋書店社長を驚嘆
させたエピソードを持つという。

二人は若松プロの助監督だったが、何でもやったという。秋山は美術関係に強か
ったので、女優の前貼り貼りから大道具、音楽を。小水はカメラに強かったので、
映画の撮影まで前日にフィルムチェンジのやり方を習い、やったという。そして、
俳優が足りないときは、二人とも街で役者を探し、それでもいないときは、自分
たちが出演した。『新宿マッド』では秋山はギターを弾く「フーテン」の若者を、
そして『性賊セックスジャック』では秋山は主役のテロリストを、小水はセクト
の大物を演じている。

最後に足立に若松プロとは何だったのか聞かれた秋山は「独りで風に吹かれて生
きている、若松、足立、大和屋、沖島の4人の大人がいた」と語り、小水は「以
後の人生何が来ても恐くなくなった。若松個人でなく、4人の監督から針のムシ
ロのような刺激をもらった」と語った。そして足立は 若松孝二について、「単に
どういう映画をとるかということではなく、才能あるこの二人の若者と闘争して
いた。そしてその才能を生かしていた」と語った。

この日、足立は何回も「この二人に拍手してやってください」と語った。それ
は、 若松孝二と自分も含めた若松プロの"戦士"たちの40年を振り返った足立
の素直な気持ちのように思えた。

最後に、二人の若松プロ後について記しておく。
秋山道男は、テレビの放送作家,「無印良品」,「チェッカーズ」のプロデュー
スなど手広く活躍し、「YMO散開」後の1984年には細野晴臣のおすみつきで、
「二代目YMO」を2ヶ月間だけ襲名した。その後も多方面でプロデューサーとし
て活躍している。
小水一男は若松プロ後一時映画界を離れ、写真家・長濱修の下で商業写真を手がけ、
1990年、旧友であるビートたけしからのオファーにより映画『ほしをつぐもの』を
監督した。現在Vシネマなどのビデオ映画のプロデュースを行う傍ら、東京・初台で
レストラン「コズミックダイニング・ガイラ」を経営している。(この店には私しばしば
行っています。カレー屋ですが、夜は飲み屋です)
 
足立正生については語るまでもないだろう。

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