音楽
生まれてきて、何のために・・・誰しもが自分に問いかける、問いかけた事があるのではないでしょうか。
荻大のみなさんに出会った頃、まだ中学生で生意気盛り・・・というよりも、知らぬが仏・・・の自分でした。もう捨ててしまったけど、当時の日記にはなりたい自分や目的などを綴っていて、今でも覚えていることがあります。
『造物家』(ぞうぶつか)になりたいというくだり、まったくの造語です。
何かを作る、造る、創る・・・そういう人になりたいと思っていたわけですが、その当時何を作りたいか・・・はわからなかった。でも何か作れるんじゃないかというぼんやりとした思いがあって、今振り返れば絵描きであった祖父の影響もあるように思います。その後も、ぼんやりとした思いをなんとなく抱きながら生きてきて、「自分を表現したい」ということだったのだろうと分析できます。
絵の才能は残念ながら受け継げなかったようで、当時から続けているのは『書く』『伝える』ということです。企業の中で過ごした時間も、ほとんどが書く、伝えるという作業でしたし、今ヨガを教える仕事をして一番大切にしていることも『伝える』ということです。きっとそれが私の役割、使命だから。
自己表現とは、どんな人にも共通する『生きている証』です。
中学生の頃に考えていた、なりたい自分とは『しっかりと生きたい!』という宣言だったのだろうな・・・と思うのです。
そんなことを思い出したきっかけは、2月に観たローリング・ストーンズの公演。
ストーンズは、中学の時からずっと大好きなバンドであり、R&Bを聴き始めたきっかけでもあります。ミックは私にとっての初めてのヒーローでした。加えて、現在のNO.1ヒーローPRINCEは、ミックに見いだされてストーンズの前座を務めたこともあって、音楽の師でもあります。
何よりメンバー全員が、もう70才を越えて、頑張って音楽やってる姿に感動しました。
ミックの50年前とも変わらない肉体はむしろ健康的なくらいだし、衰えを感じさせない声量。チャーリー・ワッツの疲れを見せないドラミング。キースは、お腹がだいぶ目立ってたけど、淡々と弾き続け、ミックと絡みながら楽しんで演奏している姿は変わらない。ロニーはたばこの本数が減ったけど、お茶目な姿が素敵でした。
みんなすでにお金持ちだし、名声もある。でもこんなにもハードなツアーに出て、ステージをこなすって、どんな気持ちなのかと考えた。もちろん好きだから・・・というのはあるけど、お金の為だけならできないのではないかな・・・と。
ドラッグやアルコールから立ち直り、ハードなフィジカルトレーニングやコントロールした生活を送る。これは並大抵ではないはず。それも50年も現役でいるって・・・驚愕です。
自分たちの使命、役割を全うする。生きるって、こういうことなんじゃないのか、という姿を見せてくれた感じがします。
欲望だけではない、もっと深いところにある、見えない力がストーンズのあの素晴らしいステージとして、形あるものに現されたと強烈な思い出になりました。
あの日記を書いた頃も、今も、私たちをインスパイアしてくれるバンドのファンでいられて良かった!
ストーンズの生き方、ステージから生きる目的、意味を教えてもらった!
それが本物のロック魂♪
頑張れ、じいさん!10代ならずこの年で、私もインスパイアされました!
感謝と共に
あっこ
2014年2月26日
東京ドーム
SET LIST:
Get Off Of My Cloud
It's Only Rock 'N' Roll (But I Like It)
Tumbling Dice
Wild Horses
Emotional Rescue
Doom And Gloom
Bitch (Fan vote)
Honky Tonk Women
Band Introductions
Slipping Away (with Keith on lead vocals and Mick Taylor
joining on guitar)
Before They Make Me Run (with Keith on lead vocals)
Midnight Rambler (with Mick Taylor)
Miss You
Paint It Black
Gimme Shelter
Start Me Up
Brown Sugar
Jumpin' Jack Flash
Sympathy For The Devil
ENCORE
You Can't Always Get What You Want
(I Can't Get No) Satisfaction (with Mick Taylor)
ユーミンやシュガーベイブからBob DylanやBob Marley、江ノ島で行われたフェスにも行った。
Pablo Cruiseもみんなで観に行ったライブの一つ。
Pablo Cruiseは当時のサーフロックというジャンルのグループ。
他には Kalapana や Cecilio & Kapono などがある。
主にサーフ・ムービーに曲が使われるなどして世界的に知られ夏になると来日していた。
Pablo Cruiseが有名になったのが FREE RIDEというサーフムービー。
私が当時見たのは NEW FREE RIDEというタイトルで、新たに編集されたバージョンだった。
初めて見たのは九段会館での上映会。
その後、藤沢市民会館やふたたび九段会館で見るなど、たぶん5回くらいは見た。
この作品がきっかけで私の旅の目的地はいつもビーチだった。
ハワイ、カリフォルニア、バリ、ゴールドコースト。
サーフポイントである撮影の地を訪ねた。
もちろん私のスキルでは海に入れるようなところではない。
けれどもすべてはこの作品が旅の始まりだった。
特にバリは、この映画の音楽と映像があまりにもインパクトが強く、かれこれ15年近く毎年通う場所となった。
話をPablo Cruiseに戻すと、NEW FREE RIDEのオープニングやピークで使われていたのがPabloの曲。日本では、プロ野球ニュースのホームランシーンなどで聞き覚えのあるZero to Sixty in Fiveという曲が有名です。
そのPabloが初来日したのが1979年。九段会館でのライブだった。
荻大のメンバー数人と観に行った。バックにはFREE RIDEの映像が映し出されていた。
とても良いライブで、その音楽性の高さにぜひまた観たいと思った。
ところがその後はサーフロックというジャンルは次第に消えて行き、再来日が果たされることはこの夏までなかった。
私はその後もずっとPabloを聴いていた。
CDを買い、i-Podになっても必ず曲を入れていた。
おととし、再結成したという情報をミクシィのPabloコミュで知り、ウェブで情報を定期的にチェック。まじめにアメリカまでライブを観に行こうと考えていたくらいだった。
私が好きなキーボードのCory Leriosは、キーボード・コンポーザーとして活躍していた。
アメリカのTVシリーズ「Baywatch」のタイトルミュージックを初めて聞いたとき、すぐにCoryだとわかった。おお!元気に活躍しているんだ!!いつかきっと会える!と思っていた。
そして今年、ライブアルバム「It's good to be live」が発売され、もしかして来日するかな・・・と思っていたのにもかかわらず、PRINCEを観にオーストラリアに行ったりしていてすっかり忘れ・・・(-_-;)
夏に来日することを知らず・・・The Beach Boys来日のニュースをチェックしていて、えーPabloが来るの!!!とあわててブルーノートの公演をチェック。3日間の公演中、最終日の1stステージなら行けることがわかってすぐに予約した。
2012年8月29日、ブルーノート東京。
33年ぶりの彼らのステージ。
ブルーノートには、元若者のおじさん、おばさんが皆とてもうれしそうに、わくわくしてステージが始まるのを待っていた。
元プロサーファーや音楽関係者の人たちもいたし、今でもサーファーであり続けている人たちもいた。
日焼け率高し!
もちろんクールビズのサラリーマンもいたけど、
なんというか・・・同年代
・・・共通する時代のカラー
時代の匂いがした。
ハワイ島のコナ・ブリューワリーのBIG WAVEというビールを飲み、再会を待った。
オリジナルメンバーは4人。そのうちの一人、Bud Cockrellはすでに亡くなっていて、新たにベーシストでボーカルのLarry Antoninoが加入した。
当然私たちも年取ってるけど、メンバーもそれなりに年を重ね・・・あんなにふさふさしていた髪はしおしおになっていたけど、いやかっこよかった!
ひょうひょうとした風貌でギターを弾きながらステージや客席を歩き回るDavid Jenkins。
年齢を感じさせないパワフルなドラムスのSteve Price。
Cory Leriosは、速弾きとちょっとコミカルな雰囲気で、ステージを盛り上げた。
演奏した曲全て・・・一緒に歌えることに、自分でも驚きながら、33年間ずっと聴き続けてきたバンドのライブにまたこうしてこれたことが、なんて幸せなことなんだろうと心に抱きつつ、思う存分楽しんだ。
Coryがキーボードを弾く姿に、声に聴きほれ・・・歌った。何度も目が合った(*_*)
ステージが終わって、帰ろうと通路に出たらちょうどCoryがいて「thank you!」と手を差し出すと、彼はHUG&Cheek kissでこたえてくれた!!!(#^.^#)
ははは、なんていう瞬間(^_-) 10代の頃だったら、OMG!OMG!OMG!大慌てだったと思うけど、じっくり心に喜びを秘めて帰りました(笑)
荻大のみんなと、時々会って飲んで、話をして、今でもそのつながりがあることに感謝の気持ちでいっぱいになる。そしてPabloも荻大のみんなも、決して過去のものではなく、現在進行形であることに大きな意味を感じる。
It's good to be live!
あっこ
http://pablocruise.com/
http://www.bluenote.co.jp/jp/artist/pablo-cruise/
bluenote HP 2012 8.27 mon.(8.29も同じ)
1ST & 2ND
1.WORLDS AWAY
2.PLACE IN THE SUN
3.RAGING FIRE
4.COOL LOVE
5.EL VERANO
6.ISLAND WOMAN
7.ATLANTA JUNE
8.DON'T WANT TO LIVE WITHOUT IT
9.LOVE WILL FIND A WAY
10.ZERO TO SIXTY IN FIVE
11.I GO TO RIO
12.WHATCHA GONNA DO ?
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一人の歌手を長く聞き続けていると時にエポックメーキングなライブに遭遇することがある。
昨日はそういう幸福な一夜だった。
山崎ハコさんというと・・・たしか1976年だったと思うが、TBSホールで行われた『パック祭り』で林美雄さんから「荻窪から駆けつけてくれました山崎ハコさんです」という紹介をされると、ギター一つで登場し「歌います」とひと言言うと「気分を変えて」を熱唱し、一瞬で私達の心を捕らえたデビューが今も心に残っているが、昨夜のライブも心に残るライブだった。
「山崎ハコ Birthday Live 縁 -えにし-」
(5/18(金)六本木「STB139」)
亡くなった故TBSアナウンサー・林美雄さんの妻・Hさんから電話がかかってきたのは、10日ほど前だった。「山崎ハコさんから、ハコさんのコンサートに誘われたんだけれど一緒に行かない?」
もちろん「イエス」の答えしかなかった。
去年10月「しんゆり映画祭」で周囲の反対を押し切って上映時間4時間38分の「ヘブンズ・ストーリー」を上映したとき、ハコさんは、前日までツアー・コンサートだったのに、新潟から駆けつけてゲストトークに出演してくれた。Hさんも当日新百合ヶ丘の川崎市アートセンターまで来てくれた。
「人生は人と人との繋がりだ」と考える私にとって「否」の答えはあり得なかった。
六本木の「STB139」という会場に待ち合わせの時間より30分早い17時に行くと、開場時間1時間前なのに、すでに20人近い行列があり、その近くのベンチに和服姿のHさんが座っていた。「STB139」という会場は初めてだったが、「STB」の下に「スイート・ベイジル」と書いてある。
「スイート・ベイジル」と言えばニューヨークのジャズクラブで、1991年湾岸戦争の取材でニューヨークに行った時にロン・カーターのライブを聞いたことがある。全世界に店舗を展開するのに「ジャズ」という枠を取っ払ったのだろうと思った。チケットはすぐに完売したらしいが、「ヘブンズ・ストーリー」の「縁 -えにし-」で、山崎ハコさんが取り置いてくれていたので、私たちは6000円払って2階席に入場することができた。
コンサートは大まかに言うと二部構成だった。
第一部は、まずハコさんが故郷・日田の東渓小学校のために作った校歌「東渓の空」を歌った。
校歌というと荒井由実が長崎県立奈留高等学校の為につくった『瞳を閉じて』を思い出すが、ハコさんの母校も過疎化で統廃合が続き、生徒の気持ちを一つにする校歌がほしいとハコさんに依頼したそうだ。
1番の出だしは「美しいこの地球に ボクたちは生まれた 太陽の日差しあびて 私たちは歩くよ」という未来に対するストレートな気持ちを歌ったものだった。
そのあと「望郷」を歌った。二つの歌のトーンはまったく違っていたが、伝えたいものは同じだと感じた。その後数曲を経て「りんご追分」と「懺悔の値打ちもない」が歌われた。
その後安田裕美氏のギター・インストルメンタルの「ニュ−シネマ・パラダイス」を経て後半に突入した。
後半ハコさんは、この日の為に結成した「縁 -えにし-・バンド」を従えて歌った。
このバンドはスタジオ・ミュージッシャンによる急ごしらえのバンドのようだったが、実力はかなりのものだった。いつもはギター一本で歌うハコさんが身を任せてシャウトしていた。
特に今は亡き原田芳雄さんから「お前は将来この曲を歌うに違いない」と言われていたというエディ藩作詞の『横浜ホンキー・トンク・ブルース』はノリにノって歌った。
後半になって、ハコさんが明らかに変貌したのが感じられた。これまでのハコさんはコンサートで受け入れられようが、受け入れられまいが、自分の世界を観客に"ぶつけて"いた。それは、ある意味で潔い態度だったが、そのために「暗い」とか「マイナー」とか言われてきたのは否定できない。しかし、この日のハコさんは観客と「共鳴」しようとしているように感じられた。
「何故なんだろう」と考えていて思い当たることが一つあった。
それは、映画『ヘブンズ・ストーリー』への出演だった。
渋谷ユーロスペースでの公開時。ハコさんは毎日観客として「ユーロ」の客席に座り、観客の反応を見ていたという。多分そこで観客の反応に対する感受性が鍛えられたのではないかと思う。そして、自分か歌手として舞台に上がったときも、観客と双方向の回路が開かれたのではないだろうか。昨夜のハコさんには、明らかに、観客と共鳴しようという態度がうかがえた。
多分今後のハコさんのステージは大きく変わるだろう。
それから、一つ書き残しておきたいことがある。
最後にハコさんは、このライブの構成スタッフとして一人の人物の名前を口にした。
「高平哲朗」。「懐かしい!」と隣の席のHさんはつぶやいた。
そうだ!林美雄さんとも親しかったはずだ。それにしても、元気に生きていたんだ!このコンサートの感動には高平哲朗さんも一枚噛んでいたことを知ると少し胸が熱くなった。
帰りの地下鉄のなかでHさんに誘っていただいたお礼を言って家路についた。
このコンサートはマキさんのホームページ上でも歌手生活42年を振り返る力をいれたコンサートとして書かれていたので期待していた。ただマイコプラズマ肺炎で11月25日の「MANDA-LA2」のコンサートが中止になっていたのでコンディションが懸念されていた。また、「歌手生活42年を振り返る」といっても演出が元「天井桟敷」のジュリアス・シーザーということでOZ時代の曲がどのように歌われるのかということも気になった。チケットを買う機会を12月に入っても逸していたが、12月上旬新宿ゴールデン街に寄った帰りにサブナードの「チケットぴあ」の店頭をのぞいたらチケットが目に入り購入した。
当日は仕事が午後3時過ぎに終わったので会場のある新宿に早めに行き、全労済ホールの近くで時間をつぶしていた。そして開場の午後6時に入場。やはり会場には60才近い年配の客が多い。会場で配られたチラシには、このコンサートが故寺山修司夫人の九條今日子さんのプロデュースであることとともに、マキさんが1951年ユダヤ系アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、17才の時「天井桟敷」に入団し、1969年に「時には母のない子のように」で歌手デビューしたことが書かれていた。
6時半、バックバンドとともにマキさんがステージに登場。舞台から遠い席なのではっきりとは分からないが、随分体を絞った印象。多分このリサイタルには期するところがあったのだろう。最初の曲は「時には母のない子のように」。気負わずさらっと歌った。11月に患ったマイコプラズマ肺炎の影響は感じられない。その後第1部は寺山修司作詞の曲を柱に次々と歌った。演奏曲の一覧表がコンサート後配られたので演奏曲を以下記す。
一部
① 時には母のない子のように
作詞:寺山修司 作曲:田中未知 1969年デビューシングル
~朗読:お月さましか話し相手がいなかったら
詩:寺山修司
② のこされた人形のうた
作詞:水野礼子 作曲:山本幸三郎 1998「BEST & CULT」
③ 時計をとめて
作詞/作曲:水橋春夫 1998「BEST & CULT」
④ 子供-家族の肖像
作詞:谷川俊太郎 作曲:田中未知 1969「アダムとイブ」
⑤ 種子-はだしで駆けて行くと
作詞:新川和枝 作曲:村井邦彦 1969「アダムとイブ」
⑥ 海の詩学
詩:寺山修司 2009年「ペルソナ」
⑦ ペルソナ
作詞:高橋睦郎 作曲:和田誠 1969「アダムとイブ」
⑧ A bird & A flower
作詞:カルメン・マキ 作曲:立花泰彦 アルバム未収録
⑨ 戦争は知らない
作詞:寺山修司 作曲:加藤ヒロシ 1969「真夜中詩集 ろうそくの消えるまで」
⑩ マキの子守歌
作詞:寺山修司 スペイン民謡 1969「真夜中詩集 ろうそくの消えるまで」
二部
① 北の海
詩:中原中也 2009年「ペルソナ」
② 人魚
作詞:カルメン・マキ 作曲:春日博文 1969年「UNIZON」
③ Lilly was gone with Windowpane
作詞/作曲:カルメン・マキ 2003年「carmen maki & salamandre」
④ 友だち
詩:寺山修司
~てっぺん
作詞:カルメン・マキ 作曲:鬼怒無月 2009年「ペルソナ」
⑤ NORD-北へ
作詞/作曲:カルメン・マキ アルバム未収録
⑥ 私は風
作詞:カルメン・マキ 作曲:春日博文 1975年「カルメン・マキ&OZ」
⑦ SOUL
作詞/作曲:リクオ
第1部はこれまで聞いたことのない曲も多く、「カルメン・マキ、テラヤマ・ワールドを歌う」という色あいが強かった。OZ時代の曲を愛する私には物足りなさが少し残った。しかし、これは演出が元「天井桟敷」のジュリアス・シーザーでこのコンサート自体が元「天井桟敷」の飲み会で発案されたものであることを考えれば当然だろう。しかもバックはOZでなくSALAMANDREなのだ。第1部と第2部の間の休憩時間にもロビーで「春日博文の飛び入りはないのかな」と話すOZファンの会話が耳に入ってくる。
第2部に入ると日本のジャニス・ジョプリンとも言われたカルメン・マキの曲が歌われていく。
皆、あの曲を待ちわびているのが感じられた。
そして、その時がきた。第2部後半で「NORDー北へ」という阿部薫と鈴木いづみの物語をテーマにした曲からにわかにテンションが上がってきた。そして「NORDー北へ」が終わると。突然始まった。「私は風」が。
観客がステージ前方に駆け出すのではないかと私も一瞬身構えたが、動く観客はいなかった。みな、自分の席で「私は風」を受け止めていた。私の前の席の女性は顔を左右に激しく振りながら、髪を掻きむしっていた。その隣の男性は座ったまま縦のりしていた。
あぁ もう涙なんか枯れてしまった明日から身軽な私
風のように自由に生きるわ ひとりぼっちも気楽なものさ
この曲でシャウトする部分。驚いたことに声が30年前同様に突き抜けて出ていた。 11月にマイコプラズマ肺炎に罹って声が出なかったと聞いていたので、心配していたのだが、完璧なシャウトだった。
会場がどよめき、揺れるのが分かった。
あぁ 私を抱いて気の済むように 抱いたあとであなたとはお別れよ
どうせ私は気ままな女 気ままな風よ
SALAMANDREの演奏も新たな「私は風」を作り出していた。春日博文がいないのは残念だったが、そんなことはどうでもいいと感じさせる歌と演奏だった。コンサートが終わってから寒風のなか新宿駅まで歩いたが、マキさんから伝えられた"熱"でちっとも寒くなかった。
「コンサートはやっぱり生で見なきゃ」と感じた夜だった。
4月14日東京着。翌15日お台場に近いZepp Tokyoという会場で、オール・スタンディングのコンサートが行われた。会場前には長蛇の列。500何番目かで入場し前から20列くらいの真ん中に立った。2Fには席もあったのかもしれないが1Fはたしかにオール・スタンディング。その中で一人だけ座っている奴がいた。ジョニー・ウィンターだ。
ジョニー・ウィンターは1944年生まれだから今年2月で67歳になった。生まれつきアルビノ(白子)でやぶにらみ。アルビノは皮膚がんになりやすい虚弱体質だという。だからジョニーはテキサスの強い太陽の下で遊べない弱々しい男の子だったはずだが、15歳でバンドを組みブルーズとロックンロールでギタリストとして頭角を表した。25歳でCBSと契約した頃には「100万ドルのギタリスト」と異名を取った。
その後ジョニーはドラッグ中毒になったが1973年に Still Alive and Well というアルバムで見事に復帰した。70年の秋から71年の夏にかけてたった1年でジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリクス、ジム・モリソンといったカリスマたちがドラッグで亡くなったことを考えると、ジョニーの復帰作のタイトル「まだ生きてるぜ、元気さ!」は、涙無くしては聴けないアルバムだったのだ。 タイトル曲は亡くなった3人への思いを歌っているに違いない。
俺がこいつはクールだと思ってたやつらはみんな6フィート下の土の中
俺を引きずり込もうとするが奴らは出てこようとしない
だから俺は飛び出してベイビーお前も出てこいと言うのさ
(Still Alive and Well)
それから38年。見事に生き残ったジョニーがそのキャリアの中で初めての日本公演を行った。
67歳はブルーズマンとしてはまだまだ行ける年齢かもしれない。だがもともとの虚弱体質が災いしたのか、その老け込みかたは70代後半かとも思わせる。既にYoutubeなどで知ってはいたが最近のジョニーはいつもステージで座っているのだ。昔のようにステージを跳ね回るジョニーはもういない。多くのファンがそのことを受け入れなければならないのだった。
しかしショーが始まったとたんにそんなことは吹っ飛んでしまった。ジョニーは座ったままだったが、吠えるように歌うしゃがれ声は昔のままの迫力で、独特のリフを聞かせる力強い早弾きも昔のままだった。あっという間に1時間あまりの「昔のまま」のステージを終え、我々50代を過ぎたかつてのロック少年たちは若者たちに混じって踊り叫んだ。夢のような1時間・・・。
新しいことはほとんど無かった。だがそれで良かったと思う。ジョニーも我々もお互いに70年代を生き残ったのだ。そして生き残ったからこそこうしてあいまみえることができた。深い感慨が残った。
思えば日本は震災と原発事故からちょうど1ヶ月を迎えていた。多くのショーが中止に追い込まれていた。震災直後にシンディー・ローパーが日本公演を敢行しファンの喝采を浴びていたが、老齢で体の弱いジョニーが本当に来てくれるのか? mixiのジョニー・ウィンター・コミュは期待と不安の書き込みで埋まっていた。
だがジョニーは本当に来てくれた。シンディのように連帯や援助を訴えることもなく、ただ黙って来日し、いつものようにショーをやり、ただ黙って次のステージへと旅立っていった。これはこれでまた実に渋い。そこに僕は年老いた白人ブルーズマンの気骨を見たような気がした。
以下にyoutubeのリンクを貼っておきますので、よかったら見てください。
1)ジョニーは東京の後いったんアメリカに戻ってからヨーロッパ各地を公演旅行した。5月にはオーストリア公演も行った。僕はまだ東京にいたので行けなかったが誰かがアップしてくれた。
http://www.youtube.com/watch?v=nGq1NfhjUnU
2)ウィーン公演でジョニーはラストでついに立ち上がってプレイした。この映像をアップした人が興奮して「世界初の映像だ」と騒いでいるのが笑える。
http://www.youtube.com/watch?v=qCxcHtxnVoc&feature=related
3)同じオーストリアのリンツでの公演。今時ジョニーBグッドをステージで演奏するのはアマチュアかジョニー・ウィンターくらいではないか。いい意味でのR&R原理主義者なのだろう。(笑)
http://www.youtube.com/watch?v=y8LIQ8a8npM&feature=related
4)今回見つけたレアものも紹介したい。音だけだがジャニスとジョニーのコラボだ。最近はオーディエンス録音などとも言われるらしいが、要するに隠し録り。だが音もまあまあで歴史的価値のあるものだと思う。
http://www.youtube.com/watch?v=omlcI1F06tc
5)こちらはジミ・ヘンとのコラボ。ここらを聴くと本当に Still Alive and Well の歌詞がしみてくる。
http://www.youtube.com/watch?v=HqzcVoj4pao&feature=related
ジョニーにはまだまだ元気でいて欲しい。だが近い将来訃報が届くことも分かっている。
僕らはそのことをお互いに知り抜いている。だが同時に信じている。ブルーズが永遠だということを。