音楽

 少し前の話なのですが、Boeさんのロンドン繋がりで荻大メンバーとも仲良しになったカムラさんのライブを聴いてきました。

I am a Kamura @ 新大久保アースダム 2011年6月12日

 そんな訳で、今回のライブには荻大メンバーの4人が集合!(でも、みんな忙しくてカムラさんのライブ終了後、ほどなくして帰っていきました)

 カムラさんと言えば「水玉消防団」。何と私は大学3年のとき、「水玉消防団」を学園祭にお招きしたことがあったのでした。
 そのほぼ30年後、荻大経由で再び出会うことになりました。(が、カムラさん、群馬大学に来たことを忘れています。まあ、忙しい方ですからしょうがない)

 ↓これがそのときのポスター
水玉消防団1981ちらし.jpg

 「水玉消防団」はルックスがとても怖いお姉様バンドで、当時の私には近寄り難い存在でした(目の周りは真っ黒でしたし・・・)。でも、当時の水玉の事務所の名称が「水玉消防団詰所」だったのは面白かったです。

 今回のライブは「第4回高江ゆんたくライブ」で、沖縄の東村高江に計画されている米国のヘリパッド建設に反対している住民を支援してのものでした。カムラさんは高円寺の反原発デモに参加したときにこの話を受けて出演を快諾したとか。
 カムラさんは荻大飲み会でも原発問題を熱く語っていましたが、その勉強熱心さは半端でなく、それゆえ、行政に対する怒りも強く持っていました。高江のたたかいもやはり共感できるものがあるのでしょう。
 ということで、そんなカムラさん、今は(昔の怖さは無く)知的で素敵なお姉様です。

 新大久保駅を出ると、そこは韓流ファンの聖地で、すごい人出でした。おまけに歩道が普通の街サイズなので体感人口密度は渋谷のそれを上回っていました。
 韓国食材のスーパーマーケットも大人気で、私の後ろを歩いていた若い女性がその店内の様子を見て、
 「ドンキよりすごい!」
と叫んでいましたが、入口から中まで客でぎっしりでした。

 到着したアースダム。開場30分も前に着いたにもかかわらず、行列です。
 歩道でしばらく待って入った店内は「禁煙」。素晴らしい!
 それにしてもすごい客の入りで、私が普段行くようなライブではほとんど有り得ない人数の客が店内に入ってきました。
 で、始まったのが、「七尾旅人+原田郁子」。この2人目当ての客が多数来ていたのでした。なーるほど。この2人の歌い方はこの手の歌手の皆さんにしばしば見かける「ねちっこい」ものでした。私はこのような歌い方が生理的に合わないので「早く終わんないかな」と思っていたのですが、そんなこと一言でも言おうものならまわり中からボコられるの必至という雰囲気でした。
 
 その後、高江の話があり、いよいよカムラさん登場です。カムラさんのボーカルにクラリネットの方、チェロの方の3人編成で、「I am a Kamura」名義での演奏でした。このメンバーでは始めてのステージだそうな。

 ボイスパフォーマンス風の曲があったりシャンソン風の曲があったり・・・。途中、ナチスの敬礼風に右手を挙げ、「国歌を歌います」と某国の国歌を歌ったのですが、歌った後、「2番を歌います」として歌ったのは、「プルトニウムは千代に八千代に・・消えないよー」というもの。さすが、女性パンクバンドのはしり「水玉消防団」をやってただけのことはあって根性あります。
 3人とも実力のある方なので緊張感溢れる素晴らしいライブでした。「天使」という歌などはもうとても素敵でした。

 カムラさんたちの演奏の他に、演劇の方たちによる朗読劇もありました。
 「今回の企画に合わせたお手軽なものなのかな?」と思って見始めたところ、あにはからんや、すごく本格的な脚本でした。確かに練習はそれほどしっかりとやったようには思えませんでしたが、見応えたっぷり。素晴らしかったです。

 accaさんという女性のキーボード弾き語りの方の歌もありました。この方は高江にもしばしば行って座り込みにも参加しているとのこと。本人が現地で撮影した写真をスクリーンに投影しながらの演奏でした。

 最後は「ラビラビ」というバンド。若い女性のボーカルに、若い女性のパーカッションと中年の男性のパーカッションという編成で、元気にやっていました。2人のリズムがやたらと強力で、客多数がこれまた元気に踊っていました。

 ということで、カムラさんに再会を約束して店を出ました。楽しかった1日でした。
 
 ちなみに、私も高江には何度か行っています。下の写真は高江で撮ったものです。私が手にしているのは高江Tシャツの夜バージョン。白いのが昼バージョンで東京あたりでも来ている人を目にしますが、この夜の方はあんまり着てる人を見ません。写真を撮った場所は高江の座り込みテントの中です。酒とかみかんとか、いろいろ置いてあります。訪ねて来た人が差し入れたものも多いです。

高江Tシャツ.jpg

 こちらの写真は1981年の群馬大学での水玉のステージ写真。みんなかっこいいです。

水玉消防団1981写真.jpg

 おわり

(こいぶー)

生まれてきて、何のために・・・誰しもが自分に問いかける、問いかけた事があるのではないでしょうか。


荻大のみなさんに出会った頃、まだ中学生で生意気盛り・・・というよりも、知らぬが仏・・・の自分でした。もう捨ててしまったけど、当時の日記にはなりたい自分や目的などを綴っていて、今でも覚えていることがあります。


『造物家』(ぞうぶつか)になりたいというくだり、まったくの造語です。


何かを作る、造る、創る・・・そういう人になりたいと思っていたわけですが、その当時何を作りたいか・・・はわからなかった。でも何か作れるんじゃないかというぼんやりとした思いがあって、今振り返れば絵描きであった祖父の影響もあるように思います。その後も、ぼんやりとした思いをなんとなく抱きながら生きてきて、「自分を表現したい」ということだったのだろうと分析できます。


絵の才能は残念ながら受け継げなかったようで、当時から続けているのは『書く』『伝える』ということです。企業の中で過ごした時間も、ほとんどが書く、伝えるという作業でしたし、今ヨガを教える仕事をして一番大切にしていることも『伝える』ということです。きっとそれが私の役割、使命だから。


自己表現とは、どんな人にも共通する『生きている証』です。

中学生の頃に考えていた、なりたい自分とは『しっかりと生きたい!』という宣言だったのだろうな・・・と思うのです。



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 そんなことを思い出したきっかけは、2月に観たローリング・ストーンズの公演。

ストーンズは、中学の時からずっと大好きなバンドであり、R&Bを聴き始めたきっかけでもあります。ミックは私にとっての初めてのヒーローでした。加えて、現在のNO.1ヒーローPRINCEは、ミックに見いだされてストーンズの前座を務めたこともあって、音楽の師でもあります。

 

何よりメンバー全員が、もう70才を越えて、頑張って音楽やってる姿に感動しました。

ミックの50年前とも変わらない肉体はむしろ健康的なくらいだし、衰えを感じさせない声量。チャーリー・ワッツの疲れを見せないドラミング。キースは、お腹がだいぶ目立ってたけど、淡々と弾き続け、ミックと絡みながら楽しんで演奏している姿は変わらない。ロニーはたばこの本数が減ったけど、お茶目な姿が素敵でした。


みんなすでにお金持ちだし、名声もある。でもこんなにもハードなツアーに出て、ステージをこなすって、どんな気持ちなのかと考えた。もちろん好きだから・・・というのはあるけど、お金の為だけならできないのではないかな・・・と。

 

ドラッグやアルコールから立ち直り、ハードなフィジカルトレーニングやコントロールした生活を送る。これは並大抵ではないはず。それも50年も現役でいるって・・・驚愕です。

自分たちの使命、役割を全うする。生きるって、こういうことなんじゃないのか、という姿を見せてくれた感じがします。


欲望だけではない、もっと深いところにある、見えない力がストーンズのあの素晴らしいステージとして、形あるものに現されたと強烈な思い出になりました。

 

あの日記を書いた頃も、今も、私たちをインスパイアしてくれるバンドのファンでいられて良かった!


ストーンズの生き方、ステージから生きる目的、意味を教えてもらった!

それが本物のロック魂♪


頑張れ、じいさん!10代ならずこの年で、私もインスパイアされました!

 

感謝と共に

あっこ


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2014年2月26日

東京ドーム

SET LIST:

Get Off Of My Cloud

It's Only Rock 'N' Roll (But I Like It)

Tumbling Dice

Wild Horses

Emotional Rescue

Doom And Gloom

Bitch (Fan vote)

Honky Tonk Women

Band Introductions

Slipping Away (with Keith on lead vocals and Mick Taylor joining on guitar)

Before They Make Me Run (with Keith on lead vocals)

Midnight Rambler (with Mick Taylor)

Miss You

Paint It Black

Gimme Shelter

Start Me Up

Brown Sugar

Jumpin' Jack Flash

Sympathy For The Devil


ENCORE

You Can't Always Get What You Want

(I Can't Get No) Satisfaction (with Mick Taylor)


 

10代の頃、荻大のみんなと様々なライブやお芝居を観に行った。
ユーミンやシュガーベイブからBob DylanやBob Marley、江ノ島で行われたフェスにも行った。
Pablo Cruiseもみんなで観に行ったライブの一つ。

Pablo Cruiseは当時のサーフロックというジャンルのグループ。
他には Kalapana や Cecilio & Kapono などがある。
主にサーフ・ムービーに曲が使われるなどして世界的に知られ夏になると来日していた。
 
Pablo Cruiseが有名になったのが FREE RIDEというサーフムービー。
私が当時見たのは NEW FREE RIDEというタイトルで、新たに編集されたバージョンだった。
初めて見たのは九段会館での上映会。
その後、藤沢市民会館やふたたび九段会館で見るなど、たぶん5回くらいは見た。

この作品がきっかけで私の旅の目的地はいつもビーチだった。
ハワイ、カリフォルニア、バリ、ゴールドコースト。
サーフポイントである撮影の地を訪ねた。

もちろん私のスキルでは海に入れるようなところではない。
けれどもすべてはこの作品が旅の始まりだった。
特にバリは、この映画の音楽と映像があまりにもインパクトが強く、かれこれ15年近く毎年通う場所となった。
 
話をPablo Cruiseに戻すと、NEW FREE RIDEのオープニングやピークで使われていたのがPabloの曲。日本では、プロ野球ニュースのホームランシーンなどで聞き覚えのあるZero to Sixty in Fiveという曲が有名です。

そのPabloが初来日したのが1979年。九段会館でのライブだった。
荻大のメンバー数人と観に行った。バックにはFREE RIDEの映像が映し出されていた。
とても良いライブで、その音楽性の高さにぜひまた観たいと思った。

ところがその後はサーフロックというジャンルは次第に消えて行き、再来日が果たされることはこの夏までなかった。
 
私はその後もずっとPabloを聴いていた。
CDを買い、i-Podになっても必ず曲を入れていた。
おととし、再結成したという情報をミクシィのPabloコミュで知り、ウェブで情報を定期的にチェック。まじめにアメリカまでライブを観に行こうと考えていたくらいだった。

私が好きなキーボードのCory Leriosは、キーボード・コンポーザーとして活躍していた。
アメリカのTVシリーズ「Baywatch」のタイトルミュージックを初めて聞いたとき、すぐにCoryだとわかった。おお!元気に活躍しているんだ!!いつかきっと会える!と思っていた。
 
そして今年、ライブアルバム「It's good to be live」が発売され、もしかして来日するかな・・・と思っていたのにもかかわらず、PRINCEを観にオーストラリアに行ったりしていてすっかり忘れ・・・(-_-;)

夏に来日することを知らず・・・The Beach Boys来日のニュースをチェックしていて、えーPabloが来るの!!!とあわててブルーノートの公演をチェック。3日間の公演中、最終日の1stステージなら行けることがわかってすぐに予約した。

Bluenote20120829.JPG

2012年8月29日、ブルーノート東京。


33年ぶりの彼らのステージ。


ブルーノートには、元若者のおじさん、おばさんが皆とてもうれしそうに、わくわくしてステージが始まるのを待っていた。


元プロサーファーや音楽関係者の人たちもいたし、今でもサーファーであり続けている人たちもいた。








konabeer_BIG WAVE.JPG





日焼け率高し!


もちろんクールビズのサラリーマンもいたけど、
なんというか・・・同年代
・・・共通する時代のカラー
時代の匂いがした。


ハワイ島のコナ・ブリューワリーのBIG WAVEというビールを飲み、再会を待った。





オリジナルメンバーは4人。そのうちの一人、Bud Cockrellはすでに亡くなっていて、新たにベーシストでボーカルのLarry Antoninoが加入した。

当然私たちも年取ってるけど、メンバーもそれなりに年を重ね・・・あんなにふさふさしていた髪はしおしおになっていたけど、いやかっこよかった!

ひょうひょうとした風貌でギターを弾きながらステージや客席を歩き回るDavid Jenkins。
年齢を感じさせないパワフルなドラムスのSteve Price。
Cory Leriosは、速弾きとちょっとコミカルな雰囲気で、ステージを盛り上げた。

演奏した曲全て・・・一緒に歌えることに、自分でも驚きながら、33年間ずっと聴き続けてきたバンドのライブにまたこうしてこれたことが、なんて幸せなことなんだろうと心に抱きつつ、思う存分楽しんだ。

Coryがキーボードを弾く姿に、声に聴きほれ・・・歌った。何度も目が合った(*_*)

ステージが終わって、帰ろうと通路に出たらちょうどCoryがいて「thank you!」と手を差し出すと、彼はHUG&Cheek kissでこたえてくれた!!!(#^.^#)

ははは、なんていう瞬間(^_-) 10代の頃だったら、OMG!OMG!OMG!大慌てだったと思うけど、じっくり心に喜びを秘めて帰りました(笑)
 

荻大のみんなと、時々会って飲んで、話をして、今でもそのつながりがあることに感謝の気持ちでいっぱいになる。そしてPabloも荻大のみんなも、決して過去のものではなく、現在進行形であることに大きな意味を感じる。

It's good to be live!
 
あっこ
 
http://pablocruise.com/
http://www.bluenote.co.jp/jp/artist/pablo-cruise/
bluenote HP 2012 8.27 mon.(8.29も同じ)

1ST & 2ND
1.WORLDS AWAY
2.PLACE IN THE SUN
3.RAGING FIRE
4.COOL LOVE
5.EL VERANO
6.ISLAND WOMAN
7.ATLANTA JUNE
8.DON'T WANT TO LIVE WITHOUT IT
9.LOVE WILL FIND A WAY
10.ZERO TO SIXTY IN FIVE
11.I GO TO RIO
12.WHATCHA GONNA DO ?


mixiの日記に5月18日のハコさんのライブについて書いたら、大輔から「荻大ノート」に書くよう言われたので、少し書き足した文章を投稿する。正直言うとまだ書き足りない気分だが、とりあえず、読んでいただきたい。
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一人の歌手を長く聞き続けていると時にエポックメーキングなライブに遭遇することがある。
昨日はそういう幸福な一夜だった。

山崎ハコさんというと・・・たしか1976年だったと思うが、TBSホールで行われた『パック祭り』で林美雄さんから「荻窪から駆けつけてくれました山崎ハコさんです」という紹介をされると、ギター一つで登場し「歌います」とひと言言うと「気分を変えて」を熱唱し、一瞬で私達の心を捕らえたデビューが今も心に残っているが、昨夜のライブも心に残るライブだった。

hako02.jpg「山崎ハコ Birthday Live  縁 -えにし-」
(5/18(金)六本木「STB139」)

亡くなった故TBSアナウンサー・林美雄さんの妻・Hさんから電話がかかってきたのは、10日ほど前だった。「山崎ハコさんから、ハコさんのコンサートに誘われたんだけれど一緒に行かない?」
もちろん「イエス」の答えしかなかった。
去年10月「しんゆり映画祭」で周囲の反対を押し切って上映時間4時間38分の「ヘブンズ・ストーリー」を上映したとき、ハコさんは、前日までツアー・コンサートだったのに、新潟から駆けつけてゲストトークに出演してくれた。Hさんも当日新百合ヶ丘の川崎市アートセンターまで来てくれた。
「人生は人と人との繋がりだ」と考える私にとって「否」の答えはあり得なかった。






六本木の「STB139」という会場に待ち合わせの時間より30分早い17時に行くと、開場時間1時間前なのに、すでに20人近い行列があり、その近くのベンチに和服姿のHさんが座っていた。「STB139」という会場は初めてだったが、「STB」の下に「スイート・ベイジル」と書いてある。

「スイート・ベイジル」と言えばニューヨークのジャズクラブで、1991年湾岸戦争の取材でニューヨークに行った時にロン・カーターのライブを聞いたことがある。全世界に店舗を展開するのに「ジャズ」という枠を取っ払ったのだろうと思った。チケットはすぐに完売したらしいが、「ヘブンズ・ストーリー」の「縁 -えにし-」で、山崎ハコさんが取り置いてくれていたので、私たちは6000円払って2階席に入場することができた。

コンサートは大まかに言うと二部構成だった。

第一部は、まずハコさんが故郷・日田の東渓小学校のために作った校歌「東渓の空」を歌った。
校歌というと荒井由実が長崎県立奈留高等学校の為につくった『瞳を閉じて』を思い出すが、ハコさんの母校も過疎化で統廃合が続き、生徒の気持ちを一つにする校歌がほしいとハコさんに依頼したそうだ。

1番の出だしは「美しいこの地球に ボクたちは生まれた 太陽の日差しあびて 私たちは歩くよ」という未来に対するストレートな気持ちを歌ったものだった。

そのあと「望郷」を歌った。二つの歌のトーンはまったく違っていたが、伝えたいものは同じだと感じた。その後数曲を経て「りんご追分」と「懺悔の値打ちもない」が歌われた。

その後安田裕美氏のギター・インストルメンタルの「ニュ−シネマ・パラダイス」を経て後半に突入した。

後半ハコさんは、この日の為に結成した「縁 -えにし-・バンド」を従えて歌った。
このバンドはスタジオ・ミュージッシャンによる急ごしらえのバンドのようだったが、実力はかなりのものだった。いつもはギター一本で歌うハコさんが身を任せてシャウトしていた。
特に今は亡き原田芳雄さんから「お前は将来この曲を歌うに違いない」と言われていたというエディ藩作詞の『横浜ホンキー・トンク・ブルース』はノリにノって歌った。

後半になって、ハコさんが明らかに変貌したのが感じられた。これまでのハコさんはコンサートで受け入れられようが、受け入れられまいが、自分の世界を観客に"ぶつけて"いた。それは、ある意味で潔い態度だったが、そのために「暗い」とか「マイナー」とか言われてきたのは否定できない。しかし、この日のハコさんは観客と「共鳴」しようとしているように感じられた。

「何故なんだろう」と考えていて思い当たることが一つあった。
それは、映画『ヘブンズ・ストーリー』への出演だった。

渋谷ユーロスペースでの公開時。ハコさんは毎日観客として「ユーロ」の客席に座り、観客の反応を見ていたという。多分そこで観客の反応に対する感受性が鍛えられたのではないかと思う。そして、自分か歌手として舞台に上がったときも、観客と双方向の回路が開かれたのではないだろうか。昨夜のハコさんには、明らかに、観客と共鳴しようという態度がうかがえた。
多分今後のハコさんのステージは大きく変わるだろう。

それから、一つ書き残しておきたいことがある。
最後にハコさんは、このライブの構成スタッフとして一人の人物の名前を口にした。
「高平哲朗」。「懐かしい!」と隣の席のHさんはつぶやいた。
そうだ!林美雄さんとも親しかったはずだ。それにしても、元気に生きていたんだ!このコンサートの感動には高平哲朗さんも一枚噛んでいたことを知ると少し胸が熱くなった。

帰りの地下鉄のなかでHさんに誘っていただいたお礼を言って家路についた。


hako01.jpg


年末に『小田急線各駅飲酒』を取材する時間的余裕がなくなり、大輔編集長から12月27日に聞きに行った「カルメン・マキ リサイタル」について書くように求められたので以下書きます。

このコンサートはマキさんのホームページ上でも歌手生活42年を振り返る力をいれたコンサートとして書かれていたので期待していた。ただマイコプラズマ肺炎で11月25日の「MANDA-LA2」のコンサートが中止になっていたのでコンディションが懸念されていた。また、「歌手生活42年を振り返る」といっても演出が元「天井桟敷」のジュリアス・シーザーということでOZ時代の曲がどのように歌われるのかということも気になった。チケットを買う機会を12月に入っても逸していたが、12月上旬新宿ゴールデン街に寄った帰りにサブナードの「チケットぴあ」の店頭をのぞいたらチケットが目に入り購入した。

当日は仕事が午後3時過ぎに終わったので会場のある新宿に早めに行き、全労済ホールの近くで時間をつぶしていた。そして開場の午後6時に入場。やはり会場には60才近い年配の客が多い。会場で配られたチラシには、このコンサートが故寺山修司夫人の九條今日子さんのプロデュースであることとともに、マキさんが1951年ユダヤ系アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、17才の時「天井桟敷」に入団し、1969年に「時には母のない子のように」で歌手デビューしたことが書かれていた。

6時半、バックバンドとともにマキさんがステージに登場。舞台から遠い席なのではっきりとは分からないが、随分体を絞った印象。多分このリサイタルには期するところがあったのだろう。最初の曲は「時には母のない子のように」。気負わずさらっと歌った。11月に患ったマイコプラズマ肺炎の影響は感じられない。その後第1部は寺山修司作詞の曲を柱に次々と歌った。演奏曲の一覧表がコンサート後配られたので演奏曲を以下記す。

一部
① 時には母のない子のように
    作詞:寺山修司 作曲:田中未知 1969年デビューシングル
  ~朗読:お月さましか話し相手がいなかったら
     詩:寺山修司

② のこされた人形のうた
    作詞:水野礼子 作曲:山本幸三郎 1998「BEST & CULT」

③  時計をとめて
    作詞/作曲:水橋春夫 1998「BEST & CULT」

④ 子供-家族の肖像
    作詞:谷川俊太郎 作曲:田中未知 1969「アダムとイブ」

⑤ 種子-はだしで駆けて行くと
    作詞:新川和枝 作曲:村井邦彦 1969「アダムとイブ」

⑥ 海の詩学
     詩:寺山修司 2009年「ペルソナ」

⑦ ペルソナ
    作詞:高橋睦郎 作曲:和田誠 1969「アダムとイブ」

⑧ A bird & A flower
    作詞:カルメン・マキ 作曲:立花泰彦 アルバム未収録

⑨ 戦争は知らない
    作詞:寺山修司 作曲:加藤ヒロシ 1969「真夜中詩集 ろうそくの消えるまで」

⑩ マキの子守歌
    作詞:寺山修司 スペイン民謡 1969「真夜中詩集 ろうそくの消えるまで」

二部
① 北の海
     詩:中原中也 2009年「ペルソナ」
② 人魚
    作詞:カルメン・マキ 作曲:春日博文 1969年「UNIZON」

③ Lilly was gone with Windowpane
    作詞/作曲:カルメン・マキ 2003年「carmen maki & salamandre」

④ 友だち 
     詩:寺山修司
   ~てっぺん
    作詞:カルメン・マキ 作曲:鬼怒無月 2009年「ペルソナ」

⑤ NORD-北へ
    作詞/作曲:カルメン・マキ アルバム未収録

⑥ 私は風
    作詞:カルメン・マキ 作曲:春日博文 1975年「カルメン・マキ&OZ」

⑦ SOUL
    作詞/作曲:リクオ


第1部はこれまで聞いたことのない曲も多く、「カルメン・マキ、テラヤマ・ワールドを歌う」という色あいが強かった。OZ時代の曲を愛する私には物足りなさが少し残った。しかし、これは演出が元「天井桟敷」のジュリアス・シーザーでこのコンサート自体が元「天井桟敷」の飲み会で発案されたものであることを考えれば当然だろう。しかもバックはOZでなくSALAMANDREなのだ。第1部と第2部の間の休憩時間にもロビーで「春日博文の飛び入りはないのかな」と話すOZファンの会話が耳に入ってくる。

第2部に入ると日本のジャニス・ジョプリンとも言われたカルメン・マキの曲が歌われていく。
皆、あの曲を待ちわびているのが感じられた。

そして、その時がきた。第2部後半で「NORDー北へ」という阿部薫と鈴木いづみの物語をテーマにした曲からにわかにテンションが上がってきた。そして「NORDー北へ」が終わると。突然始まった。「私は風」が。

観客がステージ前方に駆け出すのではないかと私も一瞬身構えたが、動く観客はいなかった。みな、自分の席で「私は風」を受け止めていた。私の前の席の女性は顔を左右に激しく振りながら、髪を掻きむしっていた。その隣の男性は座ったまま縦のりしていた。

あぁ もう涙なんか枯れてしまった明日から身軽な私
風のように自由に生きるわ ひとりぼっちも気楽なものさ

この曲でシャウトする部分。驚いたことに声が30年前同様に突き抜けて出ていた。 11月にマイコプラズマ肺炎に罹って声が出なかったと聞いていたので、心配していたのだが、完璧なシャウトだった。

会場がどよめき、揺れるのが分かった。

あぁ 私を抱いて気の済むように 抱いたあとであなたとはお別れよ
どうせ私は気ままな女 気ままな風よ

SALAMANDREの演奏も新たな「私は風」を作り出していた。春日博文がいないのは残念だったが、そんなことはどうでもいいと感じさせる歌と演奏だった。コンサートが終わってから寒風のなか新宿駅まで歩いたが、マキさんから伝えられた"熱"でちっとも寒くなかった。

「コンサートはやっぱり生で見なきゃ」と感じた夜だった。

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少し前の話になるが、僕は4月13日にウィーンを出発して東京へ向かった。手には一枚のチケットを握りしめていた。ジョニー・ウィンター東京公演のチケットだ。実際にはネットで購入したので東京に着いてからローソンでチケットを手に入れたのだが、気分としては右手にチケットを握りしめて飛行機に乗った・・・という感じだった。(笑)

4月14日東京着。翌15日お台場に近いZepp Tokyoという会場で、オール・スタンディングのコンサートが行われた。会場前には長蛇の列。500何番目かで入場し前から20列くらいの真ん中に立った。2Fには席もあったのかもしれないが1Fはたしかにオール・スタンディング。その中で一人だけ座っている奴がいた。ジョニー・ウィンターだ。

ジョニー・ウィンターは1944年生まれだから今年2月で67歳になった。生まれつきアルビノ(白子)でやぶにらみ。アルビノは皮膚がんになりやすい虚弱体質だという。だからジョニーはテキサスの強い太陽の下で遊べない弱々しい男の子だったはずだが、15歳でバンドを組みブルーズとロックンロールでギタリストとして頭角を表した。25歳でCBSと契約した頃には「100万ドルのギタリスト」と異名を取った。

その後ジョニーはドラッグ中毒になったが1973年に Still Alive and Well というアルバムで見事に復帰した。70年の秋から71年の夏にかけてたった1年でジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリクス、ジム・モリソンといったカリスマたちがドラッグで亡くなったことを考えると、ジョニーの復帰作のタイトル「まだ生きてるぜ、元気さ!」は、涙無くしては聴けないアルバムだったのだ。 タイトル曲は亡くなった3人への思いを歌っているに違いない。

俺がこいつはクールだと思ってたやつらはみんな6フィート下の土の中
俺を引きずり込もうとするが奴らは出てこようとしない
だから俺は飛び出してベイビーお前も出てこいと言うのさ

(Still Alive and Well)

それから38年。見事に生き残ったジョニーがそのキャリアの中で初めての日本公演を行った。
67歳はブルーズマンとしてはまだまだ行ける年齢かもしれない。だがもともとの虚弱体質が災いしたのか、その老け込みかたは70代後半かとも思わせる。既にYoutubeなどで知ってはいたが最近のジョニーはいつもステージで座っているのだ。昔のようにステージを跳ね回るジョニーはもういない。多くのファンがそのことを受け入れなければならないのだった。

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しかしショーが始まったとたんにそんなことは吹っ飛んでしまった。ジョニーは座ったままだったが、吠えるように歌うしゃがれ声は昔のままの迫力で、独特のリフを聞かせる力強い早弾きも昔のままだった。あっという間に1時間あまりの「昔のまま」のステージを終え、我々50代を過ぎたかつてのロック少年たちは若者たちに混じって踊り叫んだ。夢のような1時間・・・。

新しいことはほとんど無かった。だがそれで良かったと思う。ジョニーも我々もお互いに70年代を生き残ったのだ。そして生き残ったからこそこうしてあいまみえることができた。深い感慨が残った。

思えば日本は震災と原発事故からちょうど1ヶ月を迎えていた。多くのショーが中止に追い込まれていた。震災直後にシンディー・ローパーが日本公演を敢行しファンの喝采を浴びていたが、老齢で体の弱いジョニーが本当に来てくれるのか? mixiのジョニー・ウィンター・コミュは期待と不安の書き込みで埋まっていた。

だがジョニーは本当に来てくれた。シンディのように連帯や援助を訴えることもなく、ただ黙って来日し、いつものようにショーをやり、ただ黙って次のステージへと旅立っていった。これはこれでまた実に渋い。そこに僕は年老いた白人ブルーズマンの気骨を見たような気がした。

以下にyoutubeのリンクを貼っておきますので、よかったら見てください。

1)ジョニーは東京の後いったんアメリカに戻ってからヨーロッパ各地を公演旅行した。5月にはオーストリア公演も行った。僕はまだ東京にいたので行けなかったが誰かがアップしてくれた。
http://www.youtube.com/watch?v=nGq1NfhjUnU

2)ウィーン公演でジョニーはラストでついに立ち上がってプレイした。この映像をアップした人が興奮して「世界初の映像だ」と騒いでいるのが笑える。
http://www.youtube.com/watch?v=qCxcHtxnVoc&feature=related

3)同じオーストリアのリンツでの公演。今時ジョニーBグッドをステージで演奏するのはアマチュアかジョニー・ウィンターくらいではないか。いい意味でのR&R原理主義者なのだろう。(笑)
http://www.youtube.com/watch?v=y8LIQ8a8npM&feature=related

4)今回見つけたレアものも紹介したい。音だけだがジャニスとジョニーのコラボだ。最近はオーディエンス録音などとも言われるらしいが、要するに隠し録り。だが音もまあまあで歴史的価値のあるものだと思う。
http://www.youtube.com/watch?v=omlcI1F06tc

5)こちらはジミ・ヘンとのコラボ。ここらを聴くと本当に Still Alive and Well の歌詞がしみてくる。
http://www.youtube.com/watch?v=HqzcVoj4pao&feature=related

ジョニーにはまだまだ元気でいて欲しい。だが近い将来訃報が届くことも分かっている。
僕らはそのことをお互いに知り抜いている。だが同時に信じている。ブルーズが永遠だということを。



この「荻大ノート」が発足したのは2011年1月1日。前日の12月31日には荻大テクニカルスタッフの皆様が額を寄せ合ってパソコンに向かっていたとのこと。その頃、私は沖縄でのんびりしていました。ふふふふふ。

そして、その「荻大ノート」発足の頃、私は北谷町美浜での「カウントダウン・ストリート・ライブ」の場にいました。ここは米軍基地があったところで、返還された後に若者向けの店舗などが集積されてにぎわっている場所です。ここにあるスターバックスの店内を夜中に覗いたりすると、ほぼ100パーセントが米軍関係者が占めているときがあって、「いったいここは日本なのか?」と思ったりもするようなところです。

その美浜のランドマークが観覧車。その観覧車が載っている建物の前の歩道のところが少し広くなっていて、ここが沖縄のミュージシャンの活躍の場となっています。

以前、私がその観覧車の載る建物の中でコーヒーを飲んでいたとき、その路上で簡単なPAシステムを使って歌っている男性2人組がいました。「男性」ということであまり真剣に聴いていなかったのですが(笑)、真剣に聴いていなくても普通のストリート・ミュージシャンとは明らかにレベルの違う歌唱力にしだいに引き込まれていきました。そこで、演奏後、スピーカーを片付けている女性にその2人組の名前を聞いたのでした。「『D51』と言います。よろしくお願いします」。しばらくするとそのD51がデビューしていて「おう!」と思ったものでした。
その他にも、多くの沖縄のミュージシャンが育っていった場所です。

今回のカウントダウン・ライブではいくつかのバンドが演奏していましたが、ちょっと気に入ったのが男女2人組の「KATA−KANA」。ライブのときはバンド形式でやってました。

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この「KATA−KANA」は疾走感ある曲と、やや軟弱な感じの曲ととり混ぜて演奏してました。私はその疾走感溢れる感じの曲が気持ち良かったです。女性ボーカルの水島歌菜さんの髪も夜風に吹かれてまたかっこいい。が、「軟弱路線の曲の方が一般受けはするんだろうなぁ」と思いました。 
CD買いました。サインしてもらいました。わーい。 
(さっき、検索したら、2011年2月で沖縄での活動を終了して、東京でやっているらしい)

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「カウントダウン・ストリート・ライブ」のトリを務めたのは「ZUKAN」。「ZUKAN」はカウントダウンもやってました。 が、上の写真はカウントダウンの練習をしているところ(笑)。

実は今回、カウントダウンをこの美浜のストリート・ライブで迎えようと思ったのは1年前のこの場所で「ZUKAN」のライブをちらりと聴いたからでした。同じく美浜にあるライブハウス「カラハーイ」で「りんけんバンド」のカウントダウン・ライブを聴いていたのですが、そこからちらりと抜け出したときにやってたのがこの「ZUKAN」。カウントダウン・ライブを野外で聴けるのはとっても幸せ!ということで、今回は野外ライブで年越しをしました。 

沖縄県中部の金武町出身のこの「ZUKAN」は沖縄ではかなーり有名で、ブルーシール・アイスクリームのCMソングなどもやってたこともありました。ホテルのテレビをつけたらたまたま「ZUKAN」が出てた、というのを2度も経験しました。 
 ライブではとても楽しいバンドで、小さい子どもから大人まで広く人気を集めています。(でも、私はCDを買いませんでした。すまん)

そのカウントダウンですが、1分前になると美浜の観覧車のネオンが時計になって、カウントダウンをします。 
そして、新年を迎えると同時に海上で花火がたくさん打ち上がります。が、ライブ会場の路上からだと高層ホテルがじゃましてて花火がやや見づらいのでした。ちょっと残念。 
ほんとはそのホテルに宿泊してごろりとしたいところですが、貧乏旅行者の私には手の出せない金額・・・。
そこで、ライブ終了後、そのまま辺野古へ車を走らせました。そのレンタカーも10日間で1万円という超格安レンタカーです。今時、沖縄でもあんまり走っていない古い軽自動車で・・・。うー貧乏が憎い・・・。 

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それから、今回の沖縄旅行では、その他にも「パーシャクラブ」のライブも聴きました。こちらは12月28日でした。

所は同じく美浜にあるライブハウスの「モッズ」。
「パーシャクラブ」は東京での「琉球フェスティバル」には毎年出演していて、大人気ですが、東京ではちょっとスカした感じでやっています。が、沖縄ではほぼコミックバンドの雰囲気でとても楽しいです。
ボーカルの新良幸人(あら ゆきと)氏は定番の干支の着ぐるみ着用です。

「パーシャクラブ」はここのところ那覇の「セントラル」で年末ライブをやっていて、私もそこで何度か聴いたのですが、今回は北谷町。群馬県人の私からするとどっちでもそう変わらない気がするけど、「パーシャクラブ」のみなさんにとっては大きな違いがあるらしく、「北谷でやって客が来るのかなぁー?」とたいへん心配したそうな。 
結局、満員でした。会場には古謝美佐子さんも来てました。 

ということで、沖縄でのライブ、とっても楽しかったです。
私が荻大のみんなと出会った頃は、いわゆる人格形成していくうえでもかなりの影響がある中学から高校にかけてでした。多感な時期であったと言えます。
興味が尽きないうえに、今で言うオタク的にこだわりのあるお兄さん、お姉さん達から様々な情報を聞くわけです・・・。
映画を見たり、ライブを見たり、お芝居を見たり、本を読んだり、議論を交わしたり・・・たくさんの刺激を受けました。
特に林パックでは、林さんが色々なところに出かけて得た情報や体験を放送していましたから、体験することによって得られるものの価値を認識させてくれたプログラムだったと思います。
体験してみて、感じることの大切さ、喜びを知ってしまったわけですね (笑)

そんなわけで、今でも、これは!と思ったら体験して、感じてみることにしています。
・・・そして昨年末に出かけたのが、前回も書いたプリンスのライブ。
ニューヨークに見に行ってきました〜 (^^♪
前回見たのは6年前のLA公演。そのときは、一人で行って、現地のプリンスファンの集まりに合流・・・仲間に入れてもらって楽しい時間を過ごしました!
こういった行動は、なかには驚く人もいるのですが、なんだか私にとってはそう思い切ったことでもないな・・・と思います。
荻大のみんなと出会った経験からか・・・たとえ海外であっても、共通する思いを持っている人たちの間に入っていくことに、抵抗がないのです。

ここ数年、(プリンスは活動していないと思っている人がたくさんいるので、あえて書きますが)プリンスのライブは時々行われていましたが、なかなかタイミングが合わずに見に行けなかったので、今回の公演スケジュールが発表になったとき、あ、これは行ける!と確信したので、すぐにNYC行きを決めました。

せっかく行くからには、複数公演見るのが私の鉄則です。
今回は友人二人と共に、New Jersey, IZOD center、New York, Madison Square Gardenでの3公演見てきました。ツアータイトルは、〈Welcome 2 America〉です。
日本では、ややコアなR&BやFunkファンの間での評価は高いものの、ちょっとキワモノ扱いされることの多いプリンスですが、アメリカでは偉大なアーティストとして評価も高く、ファンも多いのです。みんなプリンス大好き〜な気持ちが会場を埋め尽くします。

プリンスが出てくると、みんなのパワーが一気に上昇します。
プリンスの内側からあふれるパワーが、みんなをインスパイアしているのです。
それは、プリンスが魅力的だからというだけではなく、見ている人々の内側にある力をプリンスが引き出しているからだと感じます。

一生懸命です。渾身のステージです。手抜きなんてない、一曲一曲、その一瞬一瞬に集中してます。
まさにライブ!!!
これこれ、これが見たかった〜♪
プリンスの素晴らしさは、ライブを見れば、より実感できます♪

プリンスが一生懸命に歌って、踊って、弾く♪
見ているうちに、色々なことが頭をめぐりました。
プリンスの人生そのものをステージの上で表している・・・。
たくさんの辛いこと、悲しいこと、嬉しいこと、楽しいこと・・・すべてを超えてここに存在している自分をみんなに見せてくれている。

プリンスのspiritはとても純粋で、純粋さがさらに磨きがかかっている・・・高い意識をいつも持ち続けているからこそ生まれる純粋さをプリンスのなかに見ました。

プリンスのspiritを感じること。そのために多くの人が足を運んでいる。
それが人と人とのつながり、inspireすること、されること。
形ではなく、内側に持つspiritでつながっているんだということを感じて、深い感動を覚えました。

Real music by Real musician... 以前プリンスがよく使っていた言葉です。
理屈をこねる前に、感じてみろ・・・イイものはいいだろ!!!と言われているようでした。

感じることの大切さ。
その瞬間を生きること。
その時代を経験すること。
荻大ノートには、きっとみんながその時代に経験した瞬間が凝縮されていると思います。そんな経験をシェアすることは、今の時代をどう経験するかにつながっていると確信しています。

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ステージの写真には、小さく私が嬉しそうな顔をして写っています (笑)
友人が探してくれました (^^♪
私がラジオの深夜放送を聴き出したのは小学3年生くらいのことでした。今、客観的に見るとびっくり小学生ですが、当事の深夜放送はそんな小学生も生み出すほどの勢いがありました。
5年生の頃にはナチ・チャコパックは毎週欠かさず聴いていました。その流れで自然と林パックも聴くようになっていきました。(今、日本中に吹き荒れている「早寝、早起き、朝ごはん」攻撃から見ればとんでもない子どもでしたね。ふふふ)

多くの人が同じように林パックを耳にしたのだと思いますが、そのほとんどの人は聞き流したり、あるいは嫌悪したり(笑)。
でも、極少数の人は林パックに深〜〜く入り込んでいきました。幸運なことに私もその一人になりました。

ある夏(1974年?)、としまえんでパック・イン・ミュージックの大盆踊り大会が開かれました。そこに出かけた私の目に飛び込んできたものは、「あっ!の会」(?)と書かれた手書きのポスターを貼り付けた段ボール(?)を持った人を含む7〜8人ほどの集団でした。(このあたり記憶が・・・何しろ36年前???)

林さんが「月夜のブタは恥ずかしい。ずんぐり影が映ってる。 がに股足で坂を降り、夜空見上げりゃ・・あっ・星ふたつ。ブッブー」と言っていたことから付けられた名前だと思いますが、林さんの強力なファンのみなさんでした。その会の存在をラジオで聞いていた私は、その手作りポスターを掲げている人に声をかけ、すぐに仲間に入れてもらいました。そのとき私は高校1年生。(だったかな??)

そうやって晴れて荻窪大学の一員となり、今は無き荻窪ロフトにもよく通いました。当事、群馬の田舎の高校生だった私がライブハウスの草分け的存在であった荻窪ロフトにしばしば通うことができたのも、荻大という拠点があったからこそです。(この頃の荻窪ロフトのスケジュール表を見ると驚きます!)

ところで、私にとっての本格的な音楽入門は、やはり荻大の仲間からもらった1本のカセットテープでした。片面が「大瀧ファースト」、片面が「HOSONO HOUSE」というものでした。そこから「はっぴいえんど」を知り・・・音楽の深く楽しい世界に入っていきました。

ずっと群馬に住んでいた関係で他の荻大のみなさんとはちょっと離れた生活をしていましたが、それでもライブハウス通いはずっと続いていました。それはやっぱり音楽が好きだからということなんだけれど、聴き始めたときにすでに「はっぴいえんど」は解散していたという"出遅れ感"体験と、そして、「はっぴいえんど」の活動は約2年間という短いものだったということ・・・。「音楽は聴けるときに聴かないと」ということです。

そして、林美雄さんのフットワークにも大きく影響されました。林さんは自分の足でいろいろな所に出かけていき、その中で見つけたすばらしい音楽をたくさん紹介してくれました。林さんが「いいものはいい」という信念を持って紹介し続けた音楽は、私にとって今でもとても心に残るものとなっています。

また、林さんはレコードになっていない音源もしっかり入手して電波に乗せてくれました。(例えば、「遠い海の記憶」のイントロ長いヴァージョンのやつとかね。ちなみに、この曲には個人的な思い出があります。私が大学の音楽サークルの「卒業コンサート」で卒業生バンドを組んだとき、一人1曲ずつ持ち寄って演奏したのですが、私の選んだのがこの「遠い海の記憶」でした。そのときはドラムを担当しましたが、あのイントロのバスドラはとても懐かしいです)

聴きたい音楽は自分の足で見つけ出す、そんな林美雄さんの姿勢と荻大のみなさんのおかげで、私は今でもライブハウスに通い続けています。とても幸せです。

(こいぶー)
あっこです。
音楽ネタの第一回目、運命的な出会い・・・というタイトルをつけたのですが、まずはこの荻大サイト開設に当たって、私の人生の中で大きな変化を与えてくれた、荻大との関わりについてお話したいと思います。

中学3年といえば、受験を控えた大切な時期・・・にもかかわらず、私はある初夏の週末にペイズリー柄のトラッドなワンピースにローファーを履いて原宿の駅に降り立ちました。まだ竹下通りが静かな雰囲気の時です。途中交番で場所を聞きながら、たどり着いた先は、千駄ヶ谷区民センター。
そこで開催されていたのは、「林パックの中止をやめさせる聴取者連合」(だったと思う)の会合です。

林パックとは、TBSラジオの深夜放送『パックインミュージック』の第2部、林美雄さんがパーソナリティをされていた番組です。そのパック2部が放送を終えることになるという話を聞いた方が、継続を求める活動を始めたのです。(このあたりの活動や経緯は、別の方が詳しく書いてくださっていると思います)

私は、林パックの放送の中で会合があることを聞き、出かけました。なぜ行こうと思ったのか、今ひとつ記憶にないのですが、ただ放送を継続してほしいという気持ちを自らの行動で示したかったのでしょう。
その行動が私の人生を大きく変えたと言ってもいいような、運命的な出会いでした。
そこでの出会いが現在の『荻大』へとつながります。

私にとって、もうひとつの運命的な出会いがあります。
それは『PRINCE』。⇒参照

プリンスに出会った1980年代はじめから、プリンスを聞き、プリンスの音楽と共に人生を歩んだといってもいいくらい、運命的な出会いでした。
大学生の時、渋谷のタワレコにはよく通っていました。友人といつものようにタワレコに入っていくと・・・柱に貼ってあったのがプリンスのポスター。

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ひと目見た瞬間・・・うっ、あれ?・・・かっこいい!!!!!
一般的にはキモイと評されるポスターですが、私はこのプリンスに惚れました。格好のドギツイ感じよりも、内側から溢れ出ているアクの強さに惹かれた感じがします。
そのときに買ったのが、Controversy というアルバムです。タイトルからしても、プリンスが当時感じていた様々な問題や思いが込められています。

荻大のみなさんと、そしてプリンスとの共通点。それは、「個」です。人がどう思うとか、人にどう見られるとかという外面的な問題ではなく、いつでも自分の思いや情熱、それを人に伝え、行動する力を持っています。

プリンスは、レコード会社に支配されたミュージシャンではなく、自立した活動が行えるように戦ってきました。不条理に悩まされ、その不条理を乗り越えていくことがプリンスの力にもなっていると思うのです。
だからこそ、苦難も多かったと思うし、私たちファンは、彼の活動に声援を送ってきました!音を通し、ステージパフォーマンスを通して、プリンスと私たちの内側がつながっていると感じています。

プリンスの音楽に励まされ、癒され、涙し、導かれ、出会ってすでに30年〜♪
荻大のみなさんと出会って、30年以上〜(-^〇^-)
出会いに感謝!

(あっこ)