荻大と私
私がラジオの深夜放送を聴き出したのは小学3年生くらいのことでした。今、客観的に見るとびっくり小学生ですが、当事の深夜放送はそんな小学生も生み出すほどの勢いがありました。
5年生の頃にはナチ・チャコパックは毎週欠かさず聴いていました。その流れで自然と林パックも聴くようになっていきました。(今、日本中に吹き荒れている「早寝、早起き、朝ごはん」攻撃から見ればとんでもない子どもでしたね。ふふふ)
多くの人が同じように林パックを耳にしたのだと思いますが、そのほとんどの人は聞き流したり、あるいは嫌悪したり(笑)。
でも、極少数の人は林パックに深〜〜く入り込んでいきました。幸運なことに私もその一人になりました。
ある夏(1974年?)、としまえんでパック・イン・ミュージックの大盆踊り大会が開かれました。そこに出かけた私の目に飛び込んできたものは、「あっ!の会」(?)と書かれた手書きのポスターを貼り付けた段ボール(?)を持った人を含む7〜8人ほどの集団でした。(このあたり記憶が・・・何しろ36年前???)
林さんが「月夜のブタは恥ずかしい。ずんぐり影が映ってる。 がに股足で坂を降り、夜空見上げりゃ・・あっ・星ふたつ。ブッブー」と言っていたことから付けられた名前だと思いますが、林さんの強力なファンのみなさんでした。その会の存在をラジオで聞いていた私は、その手作りポスターを掲げている人に声をかけ、すぐに仲間に入れてもらいました。そのとき私は高校1年生。(だったかな??)
そうやって晴れて荻窪大学の一員となり、今は無き荻窪ロフトにもよく通いました。当事、群馬の田舎の高校生だった私がライブハウスの草分け的存在であった荻窪ロフトにしばしば通うことができたのも、荻大という拠点があったからこそです。(この頃の荻窪ロフトのスケジュール表を見ると驚きます!)
ところで、私にとっての本格的な音楽入門は、やはり荻大の仲間からもらった1本のカセットテープでした。片面が「大瀧ファースト」、片面が「HOSONO HOUSE」というものでした。そこから「はっぴいえんど」を知り・・・音楽の深く楽しい世界に入っていきました。
ずっと群馬に住んでいた関係で他の荻大のみなさんとはちょっと離れた生活をしていましたが、それでもライブハウス通いはずっと続いていました。それはやっぱり音楽が好きだからということなんだけれど、聴き始めたときにすでに「はっぴいえんど」は解散していたという"出遅れ感"体験と、そして、「はっぴいえんど」の活動は約2年間という短いものだったということ・・・。「音楽は聴けるときに聴かないと」ということです。
そして、林美雄さんのフットワークにも大きく影響されました。林さんは自分の足でいろいろな所に出かけていき、その中で見つけたすばらしい音楽をたくさん紹介してくれました。林さんが「いいものはいい」という信念を持って紹介し続けた音楽は、私にとって今でもとても心に残るものとなっています。
また、林さんはレコードになっていない音源もしっかり入手して電波に乗せてくれました。(例えば、「遠い海の記憶」のイントロ長いヴァージョンのやつとかね。ちなみに、この曲には個人的な思い出があります。私が大学の音楽サークルの「卒業コンサート」で卒業生バンドを組んだとき、一人1曲ずつ持ち寄って演奏したのですが、私の選んだのがこの「遠い海の記憶」でした。そのときはドラムを担当しましたが、あのイントロのバスドラはとても懐かしいです)
聴きたい音楽は自分の足で見つけ出す、そんな林美雄さんの姿勢と荻大のみなさんのおかげで、私は今でもライブハウスに通い続けています。とても幸せです。
(こいぶー)
「あっ!の会」ではなく「あ」の会だったと思います。渋谷・山手教会の上の住民広場で旗を作っていたとき「あ」の字が上手に書けず、自分の字の下手さ加減に自己嫌悪した記憶があります。「あいうえお」の最初の「あ」、ということで、物事を白紙から、原点から見つめようというような会の趣旨ではなかったでしょうか?
そんな意味があったのですか。
この部分は元原稿では「アっと言う会」(?)とあって、おぼろげな記憶でもそれはないので、「あっ!の会」(?)と私の方で書き直してしまいました。
私も「あ」だったか「あっ」だったか気になって当時の資料を探してみたんだけど、出たきたもののなかに『あっ!下落合新報』とあったので、判明はしなかったんだけど「あっ」の方を一応とって?マークをつけた次第。
出てきた『あっ!下落合新報』はB4版2ページで、1974年6月号、第2号とあるんだけど、団体名は書いてなかった。
「あ」の会だったんですね~。
「あっ」っという会だと思っていました(笑)
こうやって一つ一つのベールがはがれていくのって、面白い!