記憶よ、語れ!

「同じ体験を語り合う愉しさを初めて知った」

アーカイブ資料を公開するにあたっていろいろ悩んだ。いかに大切な品々ではあっても、所詮はただの紙切れに過ぎない。それにまつわる個人的な思い出を綴ってみても、まだ足りない気がしてならないのだ。遠ざかっていく過去を呼びさますには、めいめいの記憶を持ち寄って、「あのとき何があったのか、何をしようとしていたのか」と一緒に振り返ってみなければ始まらない──そんなふうに考えたのだ。私たちはどのようにして出逢い、仲間になったのだろうか。

それには面と向かって、じかに語ってもらうのが早道だ。そこで「荻大」や、その前身であるさまざまな集まりに係わった当事者たちにインタビューを試みることにした。題して「記憶よ、語れ!」。その第1回目は、林パックの熱烈なリスナーとして早くから日本映画にのめり込んでいた黄土(こうど)さん(男性)。正月早々に会って話を聞いた。

──最初に教えてほしいのは、いつ林さんのパックを聴き始めたかということ。きっかけは何でしたか?

僕が大学に入ったのは1973年の春。それ以前の高校時代にもう聴き始めていたかもしれないな。初めはたぶん、第一部のナチチャコ(野沢那智・白石冬美)パックを聴いていて、そのまま寝られずにラジオを点けっ放しにしていて、なんとなく林パックを知ったのだと思う。

今でもよく憶えているのは、『キネマ旬報』の2月下旬号、前の年を総決算するベストテン号なんだけど、それを買ったら「白い指の戯れ」がベストテンに入っていたこと。日活の「ロマンポルノ」がベストテンに入っている、どんな映画なんだろう、と興味をもった。これが1973年2月かな。その前の年あたりから林さんの影響で日本映画を観始めていて、番組のなかで『キネ旬』という言葉が盛んに出てきたので、それでこの雑誌の存在も知ったのだと思う。実際に「白い指の戯れ」を観るのはもっと後になるのだけれど。

──高校三年で聴いていたということだよね。早朝まで起きていて大丈夫だったのかな。

学校に行ってたはずだものね、真面目な高校生だったから(笑)。どういう生活をしていたのか思い浮かばないけれど、たぶんその日だけは夕方に寝て、早朝ゴソゴソ起き出すというような生活だったんじゃないかな。

──林パックへの興味はもっぱら日本映画のようだけど、音楽などの面では?

林さんはわざわざ撮影所まで出かけて行って、珍しい音源を手に入れてきたりしていたじゃない? レコードにもなっていないような音を。そこで、「こういう映画の音楽が聴きたい」とリクエストしたりしたな。欠かさず聴くようになってからは、ハガキをほぼ毎週書いていた。ご多分に漏れず僕も『ユアヒットパレード』みたいな音楽番組もよく聴いたけれど、そういう番組にハガキを出した記憶はほとんどない。でも林パックだけは、毎週聴き終わると、すぐに感想をハガキに書いて送っていた。林さんが紹介する映画を次々に観るようになると、そのたびに感想が書ける。そうなるともう相乗効果のようになって、お互いに共通する話題が増えていって...。

僕自身はごく一般的なノンポリの大学生で、世の中の動きにそれほど関心があるほうじゃなかったけれど、ほら、林さんがよく番組で『市民の暦』を取り上げていたでしょう。小田実たちが書いた、今日はこういう事件があった日だ、という話題をひたすら市民の視点から365日分まとめた本。林さんはわざわざ「朝日新聞社から出た」と前置きして、これが偏った見方じゃないとお墨付きを与えたうえで、自分の眼を通した「伝えたいこと」として、『市民の暦』を紹介していた。映画の話題はもちろんだけれど、そうした政治や社会のことにも、林さんを通して興味がだんだん拡がっていった気がする。

自分には横の繋がりがあるわけじゃないから、ただ学校に行って勉強して、あとは本を読んで、映画を観て、という生活のなかで、新しい世界を拡げてくれた人、直接会ってはいないけれど、大きな感化を与えてくれた、まあ昔でいえば吉田松陰みたいな存在だったわけ。

で、その林さんに初めて会ったのは、先日「荻大ノート」(⇒「荻大との出会い」)にも書いたとおり、いきなり電話が来て「番組に出ないか」と誘われたのがきっかけだった。長谷部安春監督と藤竜也がゲストに出るので、君も一緒に出演しないか、と。
あれは何年のことだったか、でも大学生のはずだから1973年か74年か...。番組でどういう話題が出たか、自分が何を話したのか、今では何ひとつ思い出せないけれど、その時点ですでに週末のオールナイト上映に通う熱心な日本映画ファンだったことは確かだね。

──オールナイトについても話してほしいな。林パックから誕生した「文芸坐オールナイトを観る会」にも参加していた?

池袋の文芸坐のオールナイトに通い始めたのも1973年だったかな。たぶん大学に入ってすぐだと思う。「オールナイトを観る会」のことも番組を通じて知ってはいたけど、僕は単独のリスナーだから、群れることなく、いつもひとりで出かけていた。「観る会」のメンバーともきっとすれ違っていたはずだけど、気づかなかった。そこで誰かと友だちになろうとも思わなかった。今から思えば、もっと早く知り合っておけばよかったような気もするけれど、その時点で18歳くらいだった自分は、林さんを通して開けていった世界だから、いつも林さんに戻っていくばかりで、そこから別のところへ拡げていこうとは考えなかった。

ただ、毎回オールナイトに通っていると、自分の指定席もだいたい固定してきて、いつも傍に坐る人の顔ぶれも決まってくるから、ボツボツ話をするようにはなった。そうすると、なかには林パックのリスナーだという人もいてね。でも、それはやがて「パ聴連」や「荻大」に関わるのとは別の人たちだった。そのうちに(のちに一緒に映画をつくることになる)中山君の存在にも気がついた。なんか髪の長い人がいるなあ、と。でも、ちょっと話すだけで、とくに親しくなりはしなかった。それで別に寂しくもなかったんだよ。

僕が林パックにゲストで招かれたとき、たまたまスタジオに見学に来ていた中世君と山岸君に紹介された話はすでに書いたとおり。ふたりとも林パックの熱心なリスナーで、「オールナイトを観る会」にも加わっていたはずだけど、僕はそのときが初対面だった。

でも、このふたりと会って以降、文芸坐のオールナイトで「観る会」に顔を出した。映画が終わった早朝、近くの喫茶店に集まってちょっと話をしたことがある。でもその一回きりだったかな。中世君や山岸君とは、それからも映画館でばったり会ったりして、そのあと喫茶店に行くような間柄になった。でも、すぐに親友同士というわけではない。僕はもうすでに「映画青年」だったけれど、ふたりはどちらかといえば「政治青年」で、世の中のことに関心を向けるタイプだったから、ちょっと顔見知りができた、話せる相手が増えたという感じ。単なる知り合いにすぎなかった。

それを一気に結びつけたのが1974年8月、林パックが打ち切りになってしまうという出来事だった。番組がなくなってしまうことになって、自分たちがなんとかしなければいけなくなった。あんなやり方、こんなやり方、どうしよう...と模索を始めた。で、そういう活動的な部分についてはやはり、中世君や山岸君らが中心になっていたね。たぶん「べ平連」の影響を受けていたんだと思う。

──名前からして「パ聴連」=「パック林美雄をやめさせるな!聴取者連合」だものね。

すぐに新聞を発行して仲間を募るとか、区民会館で集会を開くとか...。おそらくそういうノウハウがすでにあったんだろうね。僕が自分でやったことといえば、投書をする──たしか『毎日新聞』とか『キネ旬』とか『ぴあ』とかに投書したわけ。林パックを終わらせないでほしい、とね。別にそれは誰かから言われたわけでも、人に相談したわけでもなく、やむにやまれぬ気持ちからただやっただけなんだけど。

大勢の力を組織するノウハウを知ってた人がいたからこそ、あのとき皆が集まれたのだと思う(1974年8月12日、千駄ヶ谷区民会館)。ここでいきなり三十数名の仲間と出会った。でも自分ではたぶん何も発言しなかったんじゃないかな。

とにかく、この集会をきっかけに署名運動をやることになって、それから秋にかけて皆としょっちゅう会うようになった。ほぼ毎日のように、どこかで誰かと必ず顔を合わせていた。会っては話し込み、誘いあってまた出かけるというふうにね。それまで各人がひとりでこつこつ貯め込んでいたものが熟していて、その捌け口がようやく見つかったという感じかな。今まで僕らは林さんから一方的に与えてもらうばかりだったのが、番組が終わることによって、今度は僕らのほうから進んで映画や芝居やコンサートに出かけ、あるいは公害反対のデモに参加することで、同じ体験を味わい、その感想を語り合う愉しさを初めて知ったのだと思うな。

(聴き手・沼辺信一 2011年1月4日、東京・高円寺「POEM」にて)